ウィーンの王宮のブルク門を抜けて左に行くと王宮庭園がありました。
そこには、モーツァルト像があり、その手前のお花が、写真のようにト音記号になっていました。
可愛いですね~

オーストリア国立オペラ座の前には、オペラの格好をした人たちが、その日の夜のオペラのチケットを買わないかと、歩き回っていました。
私は楽友協会でのコンサートのチケットを予約していたので、今回オペラ座での公演は観られませんでしたが、また次回のお楽しみにしたいと思いました。(^^)
オペラ座と言えば「オペラ座の怪人」が有名ですね。
1911年に出版されたガストン・ルルー(Gaston Leroux)の小説「オペラ座の怪人」
19世紀末のパリのオペラ座が、物語の舞台です。
1984年にロンドンでミュージカル(アンドリュー・ロイド・ウェーバー作曲)となり、1988年にはニューヨークで公演されました。
そして今では、劇団四季でも公演されていますね。
そして、オペラ座のあとは、モーツァルトハウスに行きました。
モーツァルトの自筆譜や、モーツァルトが愛用していた椅子や、当時の服などが展示されていました。
この階段、映画の「アマデウス」にも出てきたような記憶があります。
この頃のウィーンには、音楽家たちがたくさん集まってきました。
次の記事に書くシュテファン大聖堂のあたりに住んでいる音楽家が多かったようです。
モーツァルトも、そのひとり。
モーツァルトハウスやベートーヴェンハウスは、ウィーンだけでなく、他の場所にもあります。
モーツァルトは亡くなるころにはお金がなくてお墓も買えず、共同墓地に埋葬されました。
映画「アマデウス」では、モーツァルトが亡くなる経緯を、まるでミステリー小説のように書いています。
サリエリが毒殺したのではないか?との憶測もありますが、その死因は不明です。
モーツァルトは18世紀後半に活躍したオーストリアの作曲家です。
幼少期から天才ぶりを発揮し、神童と呼ばれました。
生涯に彼が作曲した数は600曲以上もあります。
モーツァルトは5歳から作曲を始めました。
プレインヴェンションにも、モーツァルトが5歳の時の作品が載っていますね。
父親のレオポルト・モーツァルトから徹底的な英才教育を受けて、小さいときからヨーロッパ中を旅して演奏を披露していました。
モーツァルトは天才肌でした。
楽譜を検証しても下書きをしている要素が全くないそうです。
頭の中に浮かんできたものを、そのまま楽譜にしていたわけです。
「僕の頭の中では、この曲はすでに完成している!」という感じ。
ただ、「小さい頃は神童、大きくなったらただの人」と言われたりもしています。
また、モーツァルトは若き日のベートーベンと会ったこともあると言われています。
これも記録が残っていないので、不明です。
この時、モーツァルトは落ち目になってきたとは言え、世界に名を馳せる有名な作曲家。
ベートーヴェンの父親は息子をモーツァルトのようにさせたいと、厳しくピアノの練習をさせたそうです。
ベートーヴェンの憧れのモーツァルトは、ちょうど「ドン・ジョバンニ」の作曲をしていた頃で忙しく、ドイツの田舎ボンに住んでいた14歳(父親が2歳年をごまかしていたので実際は16歳だったかも?)のベートーヴェンを相手にするわけはないかもしれません。
モーツァルトの死でよく言われるものに毒殺説があります。
モーツァルトの晩年は多くの謎に満ちています。
彼が亡くなったのは1791年、フランス革命の時代です。
このときモーツァルトは35歳です。
この頃のモーツァルトの絵画はどれも弱り果てながら作曲をする姿が描かれています。
彼は35歳で短い生涯を終えました。
彼の遺作はレクイエムです。
モツレク(モーツァルトのレクイエム)と日本では省略されて言われることもあります。
彼は死ぬ直前に
「誰かに毒を盛られた」
と発したと言われています。
モーツァルトの晩年はあまり人気はありませんでした。
お金がなくて、彼は共同墓地に入りました。
これは、遺された妻の怠慢だとも言われています。
ベートーベンは葬式に2万人が集まったと言われていますので、全くの逆です。
ひっそりと亡くなってしまったためモーツァルトの死は謎に包まれているのです。
毒殺の犯人としての一番有名な説は、映画「アマデウス」でも有名なサリエリです。
サリエリは宮廷学長として権威を持っていた作曲家です。
サリエリは才能ではモーツァルトに劣ることを自覚していました。
そのサリエリが嫉妬から毒殺したのではないかという説です。
次に挙げられるのが妻のコンスタンツェです。
コンスタンツェは悪妻だったと言われています。
コンスタンツェは浪費家で夫の葬儀も怠ったから共同墓地に埋葬されたとも言われています。
その他には弟子のジュスマイヤーの毒殺説や、秘密結社フリーメイソンの掟を破ったために暗殺されたなどの説があります。
モーツァルトはフリーメイソンの会員でもありました。
モーツァルトの遺作でもあるレクイエムは呪われた曲だと言われています。
「アマデウス」によると、モーツァルトが35歳のある日、灰色の服を着た痩せた男が表れました。
彼は
「ある方の愛する人が亡くなってしまった。そこでレクイエムを作って欲しい。」
とモーツァルトに依頼しました。
レクイエムとは死者を悼む鎮魂歌です。
その男は大金を置いたと言います。
しかし、その大金の条件として依頼人の名前は明かせないと言うのです。
また詮索もしてはいけないと言われました。
モーツァルトは曲作りにかかると、体調がみるみる悪くなっていきました。
そして亡くなってしまうのです。
このレクイエムが自分自身のレクイエムとなってしまいました。
この名も名乗らない男が不気味さを呼び、呪われた曲のイメージがついたのです。
実はこの灰色の服を着た痩せた男が誰なのかは、現在ではわかっています。
その名前はフランツ・アントン・ライトゲープです。
ライトゲープはヴァルゼック伯爵の友人だと言われています。
ヴァルゼック伯爵は色々な人に曲を書いてもらって、自分の曲と偽って発表をしていました。
モーツァルトの曲も自分の曲だと言って発表しようとしていたわけです。
2001年にアメリカの学者がモーツァルトの新たな死因説を発表しました。
モーツァルトはポークカツレツに火をしっかりと通さないまま食べて死んだという説です。
当時のヨーロッパでは豚肉の寄生虫による病気が流行っていました。
モーツァルトも火を十分に通していない豚肉を食べて寄生虫に感染したというのです。
発症44日前にモーツァルトが妻のコンスタンツェへ書いた手紙に、カツレツのことが書かれています。
菌の潜伏機関や発症時期を考えると、この説も考えられるというのです。
さらに2009年に出た新しい説は、「風邪で死んだ」という説です。
当時は風邪をひくと血を抜く習慣がありました。
そのときに血を抜きすぎて死んだのではないかというのです。
死の謎があまりに多すぎて検討もつきませんが、今回、そのモーツァルトが眠っているウィーンの聖マルクス墓地にも行きたいと思っていました。
でも、時間がなくて断念。
また次回の目標になりました。
ウィーン中央墓地で、ベートーヴェンやシューベルトのお墓もお参りしたい。
彼ら偉大なる作曲家のおかげで、現在の私たちはピアノを学習していかれるのですね。
これからも、色んなところを、この目で見て歩きたいです。
さて、長くなってしまいましたが、モーツァルトのことが、少しお分かりいただけたら嬉しいです。
また、次の記事に続きます。。。
川添雅恵