

無事に日本に帰ってきて、いま、時差ボケ真っ最中!!笑
眠くて眠くてたまりませんが、次の記事を書きますね。

ウィーンのシュテファン大聖堂では、有料のエレベーターに乗って屋上に行ってみました。
この情報は、奇跡の4人グループのメンバーの1人の先生に教えていただきました。
もし、教えてもらっていなかったら、きっと一階の教会内しか見なかったでしょう。
嬉しい情報を、ありがとうございました!


エレベーターでシュテファン大聖堂の屋上に行くと、ウィーンの街が一望できました。
大きな黒い鐘も真近に見ることもできましたよ。
こうして高い場所に登ると、なんとなく、魂のステージも上がるような気がします。
高い場所って、天国に近いような気がするというか、心から魂が喜ぶというか。
そんな気分になって、シュテファン寺院の屋上からウィーンの街を眺めておりました。
ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンなどの偉大な音楽家たちも、この街に住んでいたんだな~なんて思いながら。
そして、その当時のそれぞれの音楽家たちの生活に思いを馳せながら。
昔、このウィーンのシュテファン大聖堂のあたりには、現在有名になっている音楽家たちがたくさん住んでいました。
ドイツの片田舎に住んでいたベートーヴェンも、ハイドンに才能を発見され、ドイツのボンからウィーンに出てきて、このあたりに住んでいたようです。
ベートーヴェンもモーツァルトも引越しが好きで、ベートーヴェンは生涯で80回も引越しているそうです。
なので、ベートーヴェンハウスが、色んな場所にあるのでしょうね。(^^)
私が行ってみたベートーヴェンハウスは、1階がショップになっていてカギがかかっていたのですが、どうやらこの建物の5階にベートーヴェン記念館なるものがあったようです。
うーん。
その場所まで行ったのに、残念!!
来年は、そのベートーヴェン記念館にも行って、ベートーヴェンが愛用していたピアノも自筆譜も見てこようと思います。
ここの家にたどり着くのも大変でしたが、一度行ったことがあるから、多分、大丈夫!!(^^)
と、ここで、ベートーヴェンのウィキペディアを載せますね。
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1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男として生まれる。
ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。
ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。
1774年(3歳頃)よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。
1778年(7歳頃)にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。
母はまもなく死没し(肺結核)、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年(21歳頃)7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。
音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。
その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。
加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。
病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。
その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。
この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。
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ベートーヴェンは、耳が聞こえなくなり、音楽家としてやっていくことに絶望し、このウィーンの家で『ハイリゲンシュタットの遺書』を書いたと言われています。
「音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。」
例えば、ベートーヴェンのピアノソナタ。
若い頃の作品と、晩年の作品では、明らかに内容が違います。
その作品を創るに当たって、ベートーヴェンがどんな心境でいたのか?
どんな苦悩があったのか?
どんな情熱があったのか?
どんな優しさがあったのか?
どんな悟りがあったのか?
そんなことも考えながら、ウィーンの街を眺めておりました。
また、次の記事に続きます。
川添雅恵