メンデルスゾーン・ハウス
皆様、こんにちは!😄✨
引き続き、ライプツィヒのメンデルスゾーン・ハウスの記事を書きます。
バッハ音楽祭が行われていたライプツィヒには、メンデルスゾーン・ハウスや、シューマン・ハウスや、バッハ博物館などがあります。
今回は、シューマン・ハウスは場所が良く分からなくて、バッハ博物館はバッハ音楽祭の期間中がお休みだったので、メンデルスゾーン・ハウスに行ってみました。
メンデルスゾーン・ハウスには、日本語の音声ガイドもあり、ドイツ語だったなら全く分からなかったであろう説明が、とても良く分かりました。
音楽だけでなく、絵の才能もあり、メンデルスゾーンの短い生涯はとても多才であったことが分かりました。
以下、Wikipediaより。
ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 - 1847年11月4日)、通称フェリックス・メンデルスゾーンは、ドイツロマン派の作曲家、指揮者。
哲学者モーゼスを祖父、作曲家ファニーを姉として生まれたメンデルスゾーンは、神童として幼少期から優れた音楽の才能を示したことで知られる。
彼はバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院の設立など、19世紀の音楽界に極めて大きな影響を与えた。
また、作曲家としてもヴァイオリン協奏曲や「夏の夜の夢」、「フィンガルの洞窟」、無言歌集など今日でも広く知られる数々の楽曲を生み出している。
ユダヤ人の家系であったメンデルスゾーン家は言われなき迫害を受けることが多く、それはキリスト教への改宗後もほとんど変わらなかった。
そのような状況にも関わらずフェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。
死後は再び反ユダヤ主義のあおりを受けて彼の音楽への貢献は過小評価されてきたが、今日では再評価の機運が一層高まりを見せている。
1815年(6歳) 母からピアノを学ぶ。
1817年(8歳) 父親がパリに赴任した際に、同行して、マリー・ビゴーのレッスンを受ける。
子供の頃から、音楽に限らずフェリックス少年の才能を伸ばそうという親の配慮が常に見られた。
この年からベルリンでカール・フリードリヒ・ツェルターに作曲を学ぶ。
1821年(12歳) ツェルターの紹介でヴァイマルに住む72歳のゲーテを訪問して2週間ほど滞在。
1823年(14歳) 大バッハの「マタイ受難曲」の写筆スコアを母方の祖母よりクリスマス・プレゼントとして贈られる。
1825年(16歳) 父と共にパリに行き、パリ音楽院の院長ケルビーニや、フンメル、モシェレス、ロッシーニ、マイヤベーヤの知遇を得る。
1826年(17歳) シェイクスピアの戯曲を題材とした『夏の夜の夢』序曲を作曲。
1829年(20歳) 3月11日、自らの監督により、「マタイ受難曲」の公開演奏を作曲者の死後初めて行う。
会場はベルリン・ジングアカデミーのホールで、メンデルスゾーンはピアノで通奏低音を担当しながら指揮した。
この日は、パガニーニのベルリンでの初リサイタルと重なっていたが、会場には入りきれない人が千人も出たと言う。
公演は大成功で、更に10日後の3月21日(バッハの誕生日)に第2回の演奏会を行った。
作品の素晴らしさを印象づける事を意図した為に大胆な削除も行い、テンポや強弱の変化を駆使している。
演奏会場には、ベートーヴェンが第9交響曲を献呈した国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世や哲学者ヘーゲル、思想家フリードリヒ・シュライアマハー、詩人ハイネ等がいた。
1835年(26歳) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となる。
1841年(32歳) プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に招かれ、ベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任する。
1843年(34歳) 自ら奔走して設立資金を集め、ライプツィヒ音楽院を開校し、院長となる。
作曲とピアノの教授にはロベルト・シューマンが招聘された。
1847年(38歳) 5月訪英の途上、姉ファニーの死の報に接し、悲嘆の余り神経障害を起こす。
一時回復したが、11月3日には意識を失い、翌日ライプツィヒにて没した。
彼は生前には特に病弱という事も無く、登山等もしていた事、フェリックスの父アブラハムも姉ファニーも似たように若くして突然逝去している事等から、何か遺伝的な要因があったのではないかとする説もある。
1850年 ワーグナー著の論文「音楽におけるユダヤ性」で芸術性を否定される。
1892年 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス前にメンデルスゾーン記念像が建造される。
1933年11月 ナチス・ドイツにより、ユダヤ人作曲家の音楽の公演をすべて禁止する指令が発布される(しかしその後もしばしばメンデルスゾーンの音楽は演奏されており、1935年にはベルリンでヴァイオリン協奏曲ホ短調が録音されている)。
1936年末 ライプツィヒ市長カール・ゲルデラーがフィンランド出張中に、ナチスの将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーンの銅像を引き降ろし、スクラップにするよう命令を下した。
ライプツィヒへ戻ったゲルデラーは抗議の後銅像再建を進め、翌年3月ライプツィヒ市長職を辞職。
[メンデルスゾーンの生涯]
1809年2月3日、ドイツ北西部に位置する工業都市・ハンブルクにて、富裕な銀行家アブラハム・メンデルスゾーンとレア・ザロモン
の息子として生まれた。
彼が生まれたのと同じ家で、後に「ヴァイオリン協奏曲」の献呈を受け、初演者となるフェルディナンド・ダヴィッドが生を受けている。
祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、カントにも影響を残した有名なユダヤ人哲学者であった。
母のレアはイツィッヒ家の出身で、兄弟にはヤコブ・ザロモンがいた。
フェリックスは4人兄弟の2番目で、姉のファニー(結婚後、ファニー・ヘンゼル)も有名なピアニストであり、女性作曲家の先駆者でもあった。
迫害を矢面に受けて気難しくなっていく弟フェリックスの何よりの心の友、良き理解者、良き導き手であった。
後に結婚が決まってからもその日記は夫となるべき人よりも弟フェリックスの為に多くのページが使われていたらしい。
妹のレベッカは数学者のペーター・グスタフ・ディリクレと結婚した。
弟のパウルはビジネスを学び、一家の銀行の子会社である銀行を率いる商才を発揮した。
1811年、一家はアブラハムの銀行がナポレオンの大陸封鎖令を破ろうとしたことに対する報復を恐れてハンブルクを離れ、ベルリンへと移った。
両親は4人の子どもたち、ファニー、フェリックス、パウル、レベッカに最高の教育を受けさせたいと強く希望していた。
当初、アブラハムはファニーの方がフェリックスよりも音楽的才能に恵まれていると考えていた。
しかしながら、当時はアブラハムもフェリックスも、女性が音楽のキャリアを積むことは望ましくないと考えており、ファニーは活動を続けたもののアマチュア止まりとなった。
またアブラハムは、フェリックスに関しても音楽の道に進ませることには乗り気でなかったが、息子の音楽に本気で身を捧げるという情熱がはっきりするとそれを認めた。
フェリックスの育った環境は知的なものであった。
両親がベルリンにある自宅のサロンに画家、音楽家、科学者などを頻繁に招いていたからである。
その中にはヴィルヘルムとアレクサンダー・フォン・フンボルトの兄弟、後にレベッカと結婚するディリクレなどがいた。
サラ・ローゼンバーグ(Sarah Rothenburg)はその家庭の様子を「ヨーロッパが彼らの居間にやってくる。」と記している。
[名前の由来]
元はフェリックスの母方のおじであるヤコプ・ザロモン・バルトルディが、ルイーゼン広場にあった同名の土地を相続し、そのまま姓として「バルトルディ」を名乗ったのが始まりとされている。
アブラハムはユダヤの伝統に反して、フェリックスに割礼を受けさせないことを決めた。
フェリックスの家族は、アブラハムの代でプロテスタントのルーテル派に改宗していたのである。
フェリックスらの姉弟は当初宗教色のない教育を施され、1816年にフェリックスが7歳の時にルーテル教会で洗礼を受けた。
この時、フェリックスにはさらにヤコプ・ルートヴィヒをいう名前が与えられた。
アブラハムとレアが洗礼を受けたのは1822年のことで、この際1812年から使用していた"バルトルディ"を一家の姓として公式に採用することになった。
これにはユダヤ教からキリスト教に改宗した事を表す意味合いがあったと言われている。
アブラハムは後にフェリックスに宛てた手紙の中で、この決定にはアブラハムの父であるモーゼスの習慣との決別を示す方便であったと説明している。
「ユダヤ教の孔子などいないのと同様に、クリスチャンのメンデルスゾーンなどもまた存在し得ないのだ。」
フェリックスは、メンデルスゾーン姓を名乗ることをやめさせようとした父の手前その名前を名乗ったが、彼自身は特に必要性を感じておらず、「バルトルディ」を使いたがらなかった。
結局、彼はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディと二重姓を名乗っていた。
また、彼はエクトル・ベルリオーズの不敬虔にショックを受ける程、敬虔なキリスト教徒であったが、文化的な背景はユダヤ的な影響を強く受けており、自分自身がユダヤ人という意識を持っていたという。
姉のファニーは1829年の手紙でこう述べている。
「バルトルディ(中略)これは私たち皆が嫌っている名前です」
[神童]
彼以前にはモーツァルトがそうであったように、メンデルスゾーンは神童として知られていた。
彼は6歳の時に母からピアノの手ほどきを受け始め、7歳になるとパリでマリー・ビゴーに付いて学んだ。
一家がベルリンへ移ってからは、メンデルスゾーン家の4人の子どもは皆、クレメンティ門下のルートヴィヒ・ベルガーからピアノの指導を受けた。
少なくとも1819年5月には、フェリックスと姉のファニーはベルリンで対位法をカール・フリードリヒ・ツェルターに師事している。
これは彼のキャリアに重要な影響を与えた。
彼にツェルターを薦めたのはほぼ間違いなく大叔母のザラ・レヴィ(Sarah Levy)である。
彼女は大バッハの息子のW.F.バッハの教え子であり、かつC.P.E.バッハのパトロンで、その未亡人には経済的援助を行う関係だった。
ザラは生まれつきの優れた鍵盤楽器奏者であり、自身とメンデルスゾーン家が主な後援者で、ツェルターが指導者だった合唱団ベルリン・ジングアカデミーの管弦楽団としばしば共演していた。
ザラはバッハ一族の重要な自筆譜を蒐集しており、彼女はそれらをジングアカデミーに贈ったのであった。
合唱団を率いていたツェルターもその保守的な音楽の好みから、バッハとその音楽の伝統を称賛し、深く尊敬していた。
これらのことがフェリックスの音楽嗜好に大きな影響を与えたことは疑うべくもない。
彼の作品にはバロック音楽や初期古典派を研究した跡が窺える。
特にフーガやコラールには、彼が音楽的に深い影響を受けた大バッハの名残である明確な調性と対位法の使用が反映されている。
メンデルスゾーンが最初に公開演奏会に出演したのはおそらく9歳の時であり、この際に彼はホルンを伴う二重奏曲で室内楽に参加した。
また彼は幼少期から多作な作曲家であった。
思春期にあった彼の作品は、しばしばベルリンの知識人らや裕福な両親が組織する私設の管弦楽団によって家庭で演奏されたのである。
12歳から14歳にかけて、メンデルスゾーンはそのような演奏会のために12曲の「弦楽のための交響曲」を作曲している。
これらの交響曲は1世紀以上も無視され続けてきたが、現在では録音もなされ、演奏の機会もたまにある。
最初に出版された作品は13歳で作曲した「ピアノ四重奏曲 第1番 ハ短調 Op.1」である。
おそらく父アブラハムがアドルフ・マルティン・シュレジンガーの会社に働きかけて、この四重奏曲の出版にこぎつけたものと考えられる。
1824年には、15歳でフルオーケストラを用いた「交響曲第1番 ハ短調 Op.11」を作曲した。
メンデルスゾーンが16歳で作曲した「弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20」は、天才がその力量を完全に現した最初の作品として知られる。
この「八重奏曲」と共に1826年に書かれたシェイクスピアの「夏の夜の夢」への「序曲」は、彼の初期作品でも最もよく知られているものである。(彼は1842年に劇付随音楽として、有名な「結婚行進曲」を含む「夏の夜の夢 Op.61」も作曲している。)
この「序曲」は演奏会用序曲の中でもおそらく最初期の例である。
このようにわざと舞台での演劇を伴わずに演奏会形式で演奏され、その中から文学的主題を想起させるという形式の楽曲は、以降のロマン派の時代に人気のジャンルとなっていく。
1824年にメンデルスゾーンは作曲家でピアノのヴィルトゥオーゾであったイグナーツ・モシェレスの指導を受けるが、モシェレスは日記の中で彼に教えることは少ししかなかったと告白している。
モシェレスは近しい仲間、生涯にわたる友人となる。
1827年にはオペラ「カマチョの結婚Op.10」の初演が行われたが、メンデルスゾーンの生前には2度と上演されることはなかった。
この上演の失敗により、彼は同ジャンルでのこれ以上の作曲のやる気をそがれてしまった。
音楽だけでなく、メンデルスゾーンは美術、文学、語学、哲学も学んでいた。
特に西洋古典学に興味を示しており、1825年に家庭教師のヘイセ(Heyse)のためにプビリウス・テレンティウス・アフェルの喜劇「アンドロス島の女 Andria」を翻訳した。
これに感銘を受けたヘイセは1826年に「彼の生徒 F****」(アスタリクスは原文 "Felix"など)の作品として出版している。
この訳本によってメンデルスゾーンはベルリン大学で学ぶことができるようになり、1826年から1829年に同大学でヘーゲルの美学、ガンスの歴史学、リッターの地理学の講義に出席した。
[ゲーテとの出逢い]
1821年に、ツェルターは同時代の友人で書簡をやり取りする間柄だった文豪ゲーテにメンデルスゾーンを紹介した。
この少年にいたく感銘を受けたゲーテは、ツェルターとの会話の中でモーツァルトとの比較を行っているが、これは確認できるものとしては最初期のものであろう。
それは次のような内容である。
「音楽の神童(中略)は、もはやそれほど珍しいものではないだろう。
しかし、この少年が即興でしていること、初見でする演奏は奇跡という次元を超えている。
私はあれほど幼くしてこれだけのことが可能だとは思ったことがなかった。」
「あなたはモーツァルトが7歳の時フランクフルトで演奏するのを聴いたのでしょう?」とツェルターが問う。
ゲーテは「そうだ。」と答えてこう続けた。
「(略)しかし君の生徒が既にやっていることを当時のモーツァルトに聴かせるのだとしたら、それは大人の教養ある話を幼児言葉の子どもに聞かせるようなものだよ。」
メンデルスゾーンはその後何度かゲーテに招かれて会っており、ゲーテの詩の多くに曲をつけている。
ゲーテに霊感を受けて作曲された作品には他に序曲「静かな海と楽しい航海 Op.27」とカンタータ「最初のワルプルギスの夜 Op.60」がある。
1829年、ツェルターの後ろ盾と俳優エドゥアルト・デヴリエントの協力を得たメンデルスゾーンは、ベルリンにおいてバッハの「マタイ受難曲」を編曲、自らの指揮により蘇演を果たした。
この4年前に彼は祖母のベラ・ザロモンから、この当時はほぼ忘れられていた名曲の草稿の写譜を手に入れており、演奏に際しては、管弦楽と合唱をベルリン・ジングアカデミーが務めることになった。
1750年にバッハが没してから初となるこの演奏の成功は、ドイツ中、そしてついにはヨーロッパ中に広がるバッハ作品の復活につながる重要な事件であった。
この公演は、バッハのマタイ受難曲が難解であることに加えて、聴衆が興味を示さないという問題があったが、慈善公演として成功させたのである。
利益は、貧しい少女のための裁縫学校の設立に使われた。
当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評された。
メンデルスゾーン自身もルーテル派であり、バッハの作品を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と見なしていた。
この成功により、メンデルスゾーンの名声は20歳にして広く知れ渡った。
またこの時に、彼としては珍しく自らの出自に関して言及している。
「それを考えると、キリスト教徒の最も偉大な音楽を世界に蘇らせるには、俳優とユダヤ人の息子が必要だったということになりますね!」
続く数年間、メンデルスゾーンは広く演奏旅行に出かけた。
中には最初の訪問となった1829年のイングランドや、ウィーン、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ナポリなどを含む様々な都市が名を連ね、彼は行く先々で現地の、もしくは訪ねてきた音楽家や画家と出会っている。
この数年の旅先で得た着想が「フィンガルの洞窟」、「スコットランド交響曲」、「イタリア交響曲」など、彼の作品の中でも最も有名な曲へと結実するのである。
[ライプツィヒ]
1835年、メンデルスゾーンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命された。
これはミュンヘンのオペラハウスでの音楽監督への誘い、またドイツの音楽雑誌「Allgemeine musikalische Zeitung[注 8]」の編集部への勧誘を断っての選択であった。
メンデルスゾーンはこの管弦楽団、オペラハウス、トーマス教会少年合唱団、また町の他の合唱組織や音楽学校と連携しながら、ライプツィヒの音楽水準の向上に集中した。
彼が演奏会で取り上げたのは自作の他、3つのシリーズとなった「歴史的音楽コンサート」や同時代の作曲家の多くの作品などであった。
彼の元には若手の作曲家や作曲家志望の者から、曲を取り上げて欲しいとの依頼が殺到した。
そのような中の1人にワーグナーがおり、彼は自分が送った「交響曲 ハ長調」の草稿をメンデルスゾーンが無くすか置き忘れるかしたとして、嫌悪感を抱いたのであった。
メンデルスゾーンはシューベルト作品の復興にも携わっている。
シューマンは、自ら発見したシューベルトの「交響曲第8番」の自筆譜をメンデルスゾーンの元へ送り届け、メンデルスゾーンはすぐさまこれを初演したのである。
日時は1839年3月21日のライプツィヒで、シューベルトの死からは10年以上が経っていた。
ただしそれ以前にも、シューベルトの兄弟であるフェルディナントらによって、第4楽章のみが演奏されたとする説もある。
ライプツィヒ時代のメンデルスゾーンにとって記念碑的な出来事となったのは、オラトリオ「聖パウロ(英語版)」の初演である。
1836年、デュッセルドルフのライン音楽祭で行われたこの演奏会の直前には彼の父がこの世を去っており、メンデルスゾーンは非常に落ち込んでいた。
彼はこう記している。
「(私は)父に認められるための努力をこれからも決して止めはしません(中略)しかし私はもはやその努力を楽しむことはできないのです。」
同時代の作曲家の多くは「聖パウロ」を彼の最高傑作であるとみなし、これが彼のヨーロッパでの名声を確固たるものとした。
1840年にプロイセンの王位に付いたフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はベルリンを文化の中心都市にしたいと希望しており、音楽学校の新設や教会音楽の刷新などを含めた改革の先頭に、メンデルスゾーンを立てたいという意向が明白であった。
しかしながら、メンデルスゾーンはライプツィヒでの強力な地位があったこともあり、この事業には乗り気でなかった。
とはいうものの彼は一時ベルリンに滞在し、教会音楽を作曲したり、王の求めに応じソポクレスの「アンティゴネ」(1841年)と「コロノスのオイディプス」(1845年)、シェイクスピアの「夏の夜の夢」(1843年)、ジャン・ラシーヌの「アタリー(英語版)」(1845年)に曲をつけるなどした。
しかし、学校新設の基金はついに実際に準備されることはなく、メンデルスゾーンが宮廷との間に交わした財政、地位、演奏会予定などの約束は守られなかった。
このため、彼はライプツィヒへ戻るために暇を頂戴することをためらわなかった。
[ライプツィヒ音楽院の設立]
1843年、メンデルスゾーンは重要な音楽学校を設立することになる。
ライプツィヒ音楽院、現在のフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒである。
彼はモシェレスとシューマンに対し、講師として加わるように説得を行っている。
他の名高い音楽家たち、ヴァイオリニストのフェルディナンド・ダヴィッドやヨーゼフ・ヨアヒム、音楽理論家のモーリッツ・ハウプトマンらも教員として参加した。
1847年のメンデルスゾーンの死後は、学長を引き継いだモシェレスが彼の音楽院での伝統を実践した。
[メンデルスゾーンの最期]
メンデルスゾーンは晩年、おそらく神経症の悪化と過労によるものと思われる不健康に苦しめられた。
イングランドへの最後の演奏旅行は、その過密日程から彼を疲弊させ、病へと追いやった。
1847年5月14日に姉のファニーが死去したことで、彼は苦悩に苛まれる。
それから半年にも満たない11月4日、メンデルスゾーン自身もライプツィヒで度重なる発作の末、帰らぬ人となった。
38歳だった。
かねてから体調が思わしくなく、症状より死因はクモ膜下出血と思われる。
最期の言葉は
「疲れたよ、ひどく疲れた。 Ich bin m?de, schrecklich m?de.」
であった。
祖父のモーゼス、姉のファニー、そして彼の両親も同じ脳卒中で最期を迎えている。
彼の葬儀はライプツィヒのパウリン教会で執り行われ、亡骸はベルリン、クロイツベルク区の聖三位一体教会の第1墓地に埋葬された。
棺にはモシェレス、シューマン、ニルス・ゲーゼなどが付き添った。
メンデルスゾーンは宛先未詳の手紙の中で、死についてこう記していた。
「そこにはまだ音楽があって、でも悲しみや別れがこれ以上なければいいですね。」
[メンデルスゾーンの才能]
メンデルスゾーンは、早熟の天才であり、一度見た楽譜、一度聴いた音楽を完璧に記憶する能力を有していたと言う。
伝承されている逸話の1つとして、彼の代表作の1つである「『夏の夜の夢』序曲」の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものがある。
後に初稿の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、後は、完璧に同じだったという。
その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている。
多数の言語を自在に操り、青年に成る頃には、ドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していた。
音楽のみならず詩作や絵画(鉛筆画や水彩画)にも興味と関心を持ち、特に水彩画に関しては多くの作品を残している。
本職の画家顔負けの実力を持っていた。
こういった才能は生涯にわたって、彼自身や友人たちとの楽しみのために披露されていた。
現在、これらの水彩画は、ライプツィヒのメンデルスゾーン記念館に、常時、展示されている。
彼の膨大な書簡からは、ドイツ語と英語による機智に富んだ文才が垣間見え、時には文字と共に面白おかしいスケッチや漫画が添えられていた。
彼の死後、特に甥のゼバスティアン・ヘンゼルによって詳述された一家の思い出の中のメンデルスゾーン像は美化されているきらいがあり、常に平穏で幸福そうな、気性の穏やかな人物であるという評価は誤解のもとになっている。
彼の持つよそよそしさゆえに「不機嫌なポーランド伯爵」とあだ名され、彼自身が自ら書簡の中でこれに言及している。
メンデルスゾーンは周囲を驚かせるような感情の興奮状態に陥ることがしばしばあり、それは時に崩壊をきたしていた。
1830年代のある時の発作は以下のようなものであった。
「家族が一堂に会したとき(中略)彼の興奮は恐ろしいほどに高まり(中略)彼は意味不明なことを、しかも英語で喋り始め、家族は皆恐れおののいた。ついには父の厳しい一喝が制御を失した言葉の奔流に止めを指し、彼らは彼を寝室へ連れて行った。12時間熟睡した彼はいつもの状態へと戻っていた。」
こうした発作と彼の夭折は関係している可能性もあると思われる。
[メンデルスゾーンの作品]
約750のメンデルスゾーンの作品は1960年代までは出版されていなかったが、現在では大半が入手可能となっている。
メンデルスゾーンの作品と書簡の学術版全集が現時点(2010年現在)で準備中であるが、完成までには長い年月を要すると予想され、また150巻を超える規模となると思われる。
有名な「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調」や「イタリア交響曲」なども含めたメンデルスゾーンのあらゆる作品はより深く研究されており、オラトリオ「エリヤ」に隠されたヴィクトリア朝時代の習慣に関する重要な事実も解明されている。
激しく、劇的なことの多いメンデルスゾーンの室内楽作品についての認知度も高まっている。
現在、メンデルスゾーンの出版された作品はほぼ全てをCDで手にすることができ、彼の作品は演奏会や放送でも頻繁に耳にすることが可能である。
批評家のH.L.メンケンはこう締めくくっている。
「もし、メンデルスゾーンが本当に真の偉大さに値しないところがあるとすれば、それは「髪の毛1本分くらいだ。」
以上、抜粋。
メンデルスゾーンは、裕福な家庭に生まれ、音楽や絵画の手ほどきを何人かの先生に習い、見事に開花させました。
「ゲーテおじさんが、僕に、こんな話をしてくれました。」
というような、メンデルスゾーンが父親に書いた手紙は、そのほとんどが残っていて、メンデルスゾーン・ハウスでは、音声ガイドで、全てを日本語で聞くことができました。
メンデルスゾーン・ハウスには、彼が描いた素晴らしい絵画も沢山飾られていました。
でも、38歳で亡くなるとは、生きいそいでしまったのでしょうか。
遺伝的にクモ膜下で亡くなる親族が多かったのは、食べ物にも関係があったのかもしれないと思いました。
ユダヤ人として、批判を浴びながらも、自分の意思を貫き通したメンデルスゾーン。
裕福な家庭に育ち、何不自由なく全てが成功しているように見えた彼を妬み、悪く言う人は多かったのかもしれません。
その裏には、人一倍の努力や、人並みならぬ苦労があったことも知らず。
彼の偉大さは、批評家のメンケンの言葉に要約されています。
「もし、メンデルスゾーンが本当に真の偉大さに値しないところがあるとすれば、それは「髪の毛1本分くらいだ。」
今回も、長くなってしまったので、メンデルスゾーンと交流があったゲーテが良く通ったビアホールの記事は、次に書きますね。🍺✨
では、また~👋✨
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